アメリカ中西部で研究生活を楽しむ

アメリカでサバイブするということ
(アメリカ中西部で研究生活を楽しむ)

数年前にブログに書いた複数の記事を再編集してみました。アメリカで研究生活を送る(送っている)ことに関して自分の考えをまとめているうちに長い長い考察になり、「もしかした面白い読み物になるかも」と現実逃避的に書いていたわけです。今後、私がアカデミアに残れるか、バイオテックに就職できるか、あるいは分野そのものを変えることになるのkが分かりませんが、自分の体験談を何らかの形に残すことができればと思い、まだ未完成ですが公開することにしました。私個人の経験と意見なので、情報の正確さは保証できませんが、対米研究者の暇つぶしエッセイとして読んでいただければ幸いです。ああ、あと誤字脱字変な日本語が相当あると思います。。。

中年ポスドクであるワタクシの短い歴史

 私が最初にアメリカに来たのは1994年夏のことでした。911前の世界。まだ空港のセキュリティはそれほど厳しくなく、格安チケットも一般的ではなく、当然インターネットもない前世紀。デルタ航空の乗り継ぎ便を使い、成田からソルトレイクシティ、そしてシカゴ経由で目的地へ。ソルトレイクシティからの国内線でランチと称して乗客にリンゴが配られたのを何故か覚えています。中西部の某州立大学で語学研修と学部授業を受け、必要な単位を稼いで大学院に入学する。これが私のプランでした。

 インターネットのない時代、日本で入手できる大学院入学の情報といえば、バロン社から出ている分厚い大学案内の本のみ。これを赤坂にあった日米教育委員会の図書室で閲覧し、必要な事項をメモ。その後、国際便で先方の大学に問い合わせをする、という、今から思えば気の長くなるような作業。周囲にアメリカ留学経験者もおらず、もちろん現地にコネもない私は、いくつかの大学院に出願したものの、なしのつぶてで返事すらない状況。これはもう直接行くしかないでしょう、と気合をいれ、バイトで稼いだ30万円をドルに変え、渡米したのです。

 若さの情熱だけで行動した結果、私は見事大学院に合格、などということはなく、一年後に大きな挫折感と共に成田に戻ることになりました。努力は死ぬほどしました。お金が無く、大学のカフェテリアで皿洗いのバイトもした。少しでもラボの雰囲気に慣れようと実験助手のバイトもした。留学生相手の英語の授業では寝不足になりながらも宿題を完璧にこなした。大学院出願のために国際センターの職員ともやりとりをした。でもダメでした。

 帰国後、某私立大学の修士課程に入学しました。その後、某国立大学付置研にて博士課程。学位取得後はそのまま研究室にスタッフとして残りました。その間、アメリカで生活したい、アメリカの大学で研究したい、と私はいつも思っていました。NHKのラジオ英会話を毎日聞き、医療系の英語に慣れるためとテレビドラマERを字幕なして毎日見、毎日英文法の勉強をし、まるで受験生のように英語の勉強は続けました。つまり、まあ、アメリカかぶれのイタイ研究者だったわけです。

 一度目の挫折から10年以上経ち(一度目ということは、このあと二度目がある)、2006年の夏、私は再びアメリカに来ることになります。大学出の若造は、くたびれた中年ポスドクになり、色々と背中に抱えるものも増え、かつて輝かしい対象だった未来は、なんだか雲行きが怪しい感じになってしまい、という現実。でも、アメリカかぶれのイタイ私は、アメリカで研究できるんだ、という喜びで、再び成田から飛び立ちました。

 それから6年経ち、今私はアメリカで研究者として生きています。中西部の某大学でリサーチファカルティとして採用されて、まあポスドクに毛が生えた程度ですが、大学からそれなりの福利厚生も与えてもらい、給料もなんとか貯金が出来る程度いただいて、クタビレながらも研究生活を送っている。将来への不安?山ほどあります。自分の能力をどう思うか?ゲンナリしてます。英語は話せるようになった?話す度胸は付きました。日本へ帰るつもりはあるの?どうでしょうかねぇ。アメリカは不便じゃない?不便が当たり前なので、不便とは思わなくなりました。それで、毎日充実してるの?充実して研究人生を送ってます。

アメリカ研究留学のよくあるパターン

 四年生大学を出て、大学院修士課程を修了し、博士課程に進学、研究論文を発表して、審査に合格。それでようやく博士がとれます。大学4年、修士2年、博士3年が標準コースでしょう。理学系ではなくて医学系博士課程ですと4年かかります。その間、もちろん授業料は払う。実家が出してくれる人もいるでしょうが、育英会等の奨学金制度やバイトで生活と授業料をまかなう人も多い。博士取得時に、500万円程度の借金がある、なんてのは普通にきく貧乏話。では、お金を払い毎日真面目に研究をすれば順調に博士が取れるか?いえいえ、そんなことはなく、学位取得のタイミングは、研究室内の人間関係や指導教官である教授との相性に大きく左右される。うまくいけば、楽しい学生生活、そして、研究者としての立派な修行を送れる10年弱。ドツボにはまると、ノイローゼになり性格破綻すらしてしまう(多くの場合は、寸前で済みますが)10年弱。こういう現実は、インターネットの掲示板を見れば詳しく知ることができます。

 博士取得の見込みがつくと、多くのひとは卒業数ヶ月前から職探しを始めます。ある人は指導教官に気に入られて、大学職員として研究室に残ることを認められます。あるいは、別の大学の職員として(例えば、兄弟子にあたる人が最近始めた研究室のスタッフ)。しかしながら、多くの人が就くポストがポスドクと呼ばれる非常勤の職業です。任期付き研究員。所属する研究室が獲得している研究費に依存したポストです。正規職に就けないけれど、大学内で研究は続けたいので、五年契約、とか三年契約、あるいは単年契約、でどこかのラボに所属する。この間に、新しい論文を出し業績を稼ぎ、学会等で人脈をつくり、ボスに認められ、正規職をゲットしようとする。それが無理なら、次のポスドクポジションを見つけなければならない。が、残念ながら、多くの人は正規職に就けません。正規の職、すなわち、助教や准教授のポジションを獲得するには、実力以外にも、コネや運、学歴や人脈が必要だという事実は、インターネットの掲示板を見ればすぐに分かります。そして、多くの人は結果として複数のポスドクを続けていくことになる。これがいわゆるポスドク問題です。この過程で、一部の人達は、だったらいっそのこと外国で再チャレンジするか、と、アメリカやヨーロッパやシンガポールの研究機関に出て行きます。

 博士を取得した研究者が外国の大学や企業に出向くことを、一般に研究留学と呼びます。ただ、「研究留学」にもいくつかのパターンがある。まず、大学を休職して海外経験を積むために研究留学する人達。こういう人達は、所属する日本の研究機関から給料が支払われたりします。また、日本での職が激務だった場合、外国での2年間は「人生の夏休み」的な意味合いになることもある。次に、前述した場合のような、日本で芽が出ずに外国へ活路を見出す場合。アメリカで良い仕事をして、アメリカの大学で研究室を構える、あるいは、成果を引っさげて日本にもどり、良い大学に採用されるのを狙うわけです。この場合、ある一定期間、日本とは縁を切り、こちらの研究機関に採用されて給料をもらうわけです。当然、給料を払う側は、ある程度の仕事をこなすことを要求してきます。

 日本を出て、アメリカで頑張る。アメリカでよい結果を出して、研究室を構える、もしくは、日本に凱旋帰国する。これはとても大変なことです。研究は、努力すれば良い結果につながるとは限らないからです。また、外国の環境で自分を追い込んで仕事をするためには、精神的な強さが要求されます。加えて、研究は、勝ち負けの要素があるように考えられています。自分の研究と同じ内容が別のグループからあっさりと報告されるかもしれない。そういう恐怖は常にあります。その結果、せっかくアメリカに来て頑張って研究をしているのに、どうも不満や倦怠感に満ちていたり、内向的な考えになってしまったり、研究を楽しめなくなってしまったりしてしまう。だからと言って日本に帰る場所も無し。将来どうなるんだろうか、という話題は、アメリカで出会う日本人ポスドクのおきまりの話題です。どうにかならないものだろうか。

アメリカでポスドク問題に立ち向かってみる

 ここだけの話、週に何度か、将来に対する不安感に襲われてげんなりすることがあります。車の運転をしてる時に突然ネガティブな思考が始まり憂鬱になって帰宅するとか。逆に、年に数回か、なんかうまくいくような楽天的な気分になることもあります。冷静に考えるならば、どうせアメリカで研究生活をおくるなら、仕事も生活も楽しくやるほうがいいのに決まってます(アメリカ生活に限らず、人生そのものがそうですが)。不安を抱えておろおろしても、飲み会で愚痴を延々と言っても、トイレで独り溜息をついても、何も解決しない。はるばるアメリカに来て、すぐにどうにでもなるようなことでもない事柄におろおろしてるならば、その時間を有効に使って気分転換したほうがずっといい。そのためには、どうしたらいいのか。うつ状態から抜け出した時、私はいつも考えます。この混迷を打開する解決策はないのか?博士なんだろう、お前は?頭を使え、と。

 私は、ここ数年、ブログを通じて、ポスドク問題やアメリカ生活について考察してきました。自分自身の経験や、多くの在米外国人ポスドクから聞いた体験。彼ら彼女らの将来の戦略。それを元に自分で考えてみたこと。こういうことをブログに散発的に記述してきたわけです。ある場合は意見をいただき、考えを修正したりしました。その結果、今は、ポスドクという不安定な職業でもアメリカにいれば楽しく過ごせるんじゃないの、と思い始めています。そこで今回、これらを電子書籍の形でまとめ、アメリカで日本人ポスドクがサバイブするため必要な姿勢と手段について考察し、どうすればアメリカ生活が充実したものになるかと述べていこうと思います。

 私の思考過程は以下の通りです。最初にポスドクが抱いている不安は何かを明確にし、問題点を挙げてみる。次に、それぞれの問題にたいして有効な手立てはないかを検討する。そして、検討した方法は実現可能かを現実的に(例えば、金銭面、時間、立場、年齢)考慮する。この段階において、アメリカ研究留学が不安解決の実現可能な選択支の一つではないかと導きます。そこで次に、アメリカ研究留学の細部について考察し、充実した研究人生としてアメリカ生活を送る術について述べる。そして、今、アメリカで閉塞感を抱えている中年ポスドク、あるいは、これから研究者になることを考えている人達に、ひとつのモデルを提示できればと考えています。

 研究者になった人達は皆、科学が好きでこの世界に入ってきています。しかし、いつのまにか科学に携わってきたことを後悔するようになってしまう。こういう悲しい現実を少しでも変えることができればと思い、以下より私の論考を始めます。

まず、ポスドク問題とは何かを考えてみた。

ポスドク問題、という話題で、私が周辺のポスドク連中と話すと、業績、ポスト、将来の不安、仕事と遊びのバランス、アカハラ、パワハラ、等の話題が出てきます。よく考えると、例えばこの中で、将来の不安、仕事と遊びのバランス、パワハラは、ポスドクに限りません。同じくらいの世代の人は皆もっている悩みです。なので、ポスドク問題は、

1、同世代が共通に抱えている問題 (以下、問題1)
2、ポスドクが特異的に抱えている問題 (以下、問題2)

の二つに分けられると思います。

問題1に関しては、「バブル崩壊後の社会で生き抜くために」とか、「グローバリゼーションの流れの中で」とかいったくくりで、NHKで特集されたり、書店のコーナーがあったりして、こういう情報をもとにすれば、なんらかの解決法が見つかりそうです。また、ポスドクのアドバンテージを利用して、企業のサラリーマンとは異なるアプローチができるかもしれません。

問題2について考えて見ます。業績、ポスト、やりたい研究ができない、教授が優秀じゃないのでデータを理解してもらえない、業績とポストが結びつかない、1日12時間以上ラボにいないといけない、等でしょうか。私は、これらはさらに2つのグループに分けられると思います。

21、どうやってサイエンスと接するか (以下、問題21)
22、どうやって研究生活を維持するか (以下、問題22)

問題21はこういうことです。自分はサイエンスをするのが好きだけれど、自分の興味ある分野はあまり人気がない。だから、トップジャーナルになかなかアクセプトされない。一度でいいから、納得のする研究をしたい。大発見をしたい。あの現象を解明したい。有名雑誌に論文を出したい。知的好奇心と名声欲のバランスをどうするか。

問題22は、問題21に比べると現実的なものです。すなわち、研究者としてどうやって生活をしていこうか。研究ばかりしていて交流範囲をせまくなり友達が減ってきてるけれど大丈夫なのだろうか。1日12時間働いて帰宅しても何もやる気がでない。このままポスドクを続けられないけれど、どうやって、このラボをでて次のポストを見つけるか。家族をどうやって養うか。結婚ができるのか。

以上の3つの問題点がポスドク問題を構成しているのではないかと思います。

ポスドクをとりまく日本社会の現状について考察する

ポスドク問題を実感してる世代は、30代から40代初めの方々と思われます。この世代はどういう世代なのか?私は30代後半なので、自分の少年期と青年期を振り返り、それを例として、この世代のポスドクが過ごしてきた時代を考えて見ます。

私は、父親の仕事の都合で、中学に入るまで、4回引越しを経験しています。4回目で東京に住むことになり、それ以降、アメリカに来るまで東京で過ごしました。父親は典型的な、「モーレツ社員」(死語ですが・・・)で、私は中学に入るまで、年末年始以外に父と共に夕食を食べた記憶がありません。日曜は接待ゴルフです。父は数回の転勤の後に、本社勤めをするようになったようで、それで、東京に腰を落ち着けることができたようです。

ところが、東京で暮らすようになり数年すると、父の帰宅時間が早くなりました。また日曜に家にいることも当たり前になりました。おそらく、30代から40代前半にかけて体力任せで仕事をして結果を出したことで本社勤めになり、父の仕事は一応のゴールを迎えたのだと思います。確かに、引越しを繰り返す度に我が家の生活は向上していくのが、小学生だった私にも実感することができました。

働けば働いた分、給料が上がり出世できる。これは親の世代では当たり前だったのでしょう。60年代から80年代の30年間は、毎年給料は上がり、年齢と共に仕事のポジションもあがる。会社に忠誠を尽くせば、首を切られることもなく、能力の有無に関わらず採用し続けてくれる。我々は子供の頃、親や身近な大人を通じて、「日本社会とはこういうものなんだ」とインプットされ続けてきたのではないでしょうか。

その結果我々は、良い大学に行けば良い会社に入れる、良い会社に入り真面目に働けば給料もポストも上がっていく、と考えるようになった。そして、ならば、大学院に残り自分が好きな研究を続ければ同じように助手になって講師になってというコースに乗れるだろう、という想像をするようになったのではないでしょうか。

私は修士を90年半ばに私立大学でとったのですが、その学部には新任の講師や助教授が多く、彼らは「博士を取って数年すれば、どこかで助手のポストに就けるよ。」と良く言っていました。彼らは、80年代半ばに学位をとり、90年頃に採用された人達です。

90年、ちょうどバブルが弾ける直前です。大学の外でも、この新任講師が言うような景気の良い話はたくさん聞かれました。会社の研修でオーストラリアに行ったとか、高校の先輩は有名企業数社から内定をもらって毎日人事担当者に飲みに連れて行ってもらってるらしい、とか。(W浅野、石田純一、荒木師匠、ゴッホのひまわり、ザウス、ZOOとか・・・)

ところが、90年初めにバブルが弾けて、その影響は90年後半から社会のいたるところに見られるようになります。私がいた大学内で90年前後に企画されたプロジェクト(新しい研究棟の建設とか、新しい領域の学部創設とか)が、実行されずに潰れてしまった、という話をその後聞きました。

その後私は、国立の大学院博士課程に進学し、ひたすら研究室の中で過ごし、よれよれになりながら21世紀になってすぐに学位を得て、ポスドクになりました。そして、「ポスドク問題」、という問題があることを知り、その中に自分が含まれることを気づくのです。

こうやって自分の学生時代を当時の社会にあわせてふりかえると、日本経済がバブルをピークにして、その後、成長しないステージに入ってることが、問題1の大きな要因なのではないかと思われます。親の世代を見て、当然毎年生活がよくなると考えていた我々の期待は、バブル崩壊とともに裏切られてしまったのです。


バブル以前にポストを得ていた人達は、我々の感覚が理解できないと思います。こういう人達は「データが出ないなら、もっと働けばいいのではないか?ポストが欲しければ、寝ないで働け。」、と本気で考えるでしょう。でも今はバブル前とは違う。ポストは増えずにむしろ減る、もしくは任期付きになる。そして、こういう厳しい雇用状況は、研究の領域に限らないはずです。


結局我々の世代は、バブル前に成長期の日本を見ながら大人になり、その感覚で仕事や人生設計を考えた。ところが、バブル崩壊と共に日本社会は大きく変わってしまった。社会構造が大きく変る中で、社会に出てしまった(もしくは出る直前の)我々の世代は、もうそこから方向転換するわけには行かずに、そのまま社会で働き始める。バブル前に職を得た人達は当然その特権を手放すわけがない。そして我々は、思うように先に進めない。それが現状だと思います。


ところで、バブル前の成長期は、いつから始まったのでしょうか?親の世代は、60年安保や70年安保の学生運動の時期に青春を過ごしています。では、その前の世代、すなわち我々の、祖父母の世代はどうでしょうか。ちょうど太平洋戦争のときです。ということは、親の世代は、祖父母の世代よりも、物質的に豊かな環境で過ごしています。祖父母の前の世代は、大正期です。大正デモクラシー。大正デモクラシーで、明治期よりも日本は開かれた豊かな社会になったという事実は歴史で学んだとおりです。明治の前は文明開化で、その前は江戸時代末期です。


こうやって考えてみると、太平洋戦争という暴力的な時期をはずして考えれば、明治維新からバブル崩壊まで、日本社会はひたすら物質的に豊かになることを目指してきたことが分かります。そして、実際、150年前に列強の黒船に脅かされて不平等な条約を結んだ日本は、途中で世界中を相手に戦争をするという行動を経て、80年末期に世界一のお金持ち国家になりました。


つまり、バブル崩壊により社会構造を変えざるを得なくて縮小モードになっている日本社会は、今、すくなくとも過去150年の間には、誰も経験したことのない状況にあるということになります。親の経験談も、祖父の経験談も、我々の目の前にある問題に対して役に立たないのかもしれない。誰も経験してないので、誰も有効な手立てを教えることはできません。できるのは、我々自身で、リスクを背負って対処することだけです。


日本では、NHKで司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」をドラマ化するとききました。この話で、司馬遼太郎は、日清戦争と日露戦争を背景として、明治期の群像を描いています。坂の上にある雲を目指してひたすら駆け上がる人々の話です。その後、日本は「坂の上の雲」に手が届くと思って150年間必死に坂をのぼり、そしてとうとう、坂の上にあがることができた。150年間、日本の目標は坂の上に行くことだった。そして今、坂の上に来たときにどうしたらいいのか、途方にくれている。そういう現状ではないでしょうか。


思想家、浅羽通明さんの最新の著作「昭和三十年代主義」(幻冬社)を読むと、上に書いたような状況を良く理解することができます。

ポスドクが抱える不安とは何か?

ポスドク問題について考察を続けます。実験データを下に仮説やモデルを考えるのではなく、自分の現状を言葉を用いて論理的に考えモデルを組みたてていく作業はなかなか大変です。人文系の研究者はよくこんな作業ができるものだと思います。

さて、前回は、浅羽通明さんの本を下に、我々ポスドクの生きた来た時代と現状について考えました。そして、バブル崩壊後の社会は日本が近代において始めて経験する状況だ、という結論になりました。そのため、バブル前に生きた親や祖父のアドバイスは通用しないこと、また、バブル直前までにポストにつくことのできた先輩研究者と我々の立場は大きく違うこと、を確認しました。

この状況は研究者に限ったことではなく、30代から40代前半の世代に共通する問題だと思われます。我々の世代は先達のやり方が通用しない、すなわち、我々一人一人が自分なりの方向を見つけて諸問題に対処しないといけないのではないか。諸問題に対処するにはどうしたら良いのだろうか?

我々が問題だと思うことは、例えば、安定した仕事に就きたい、好きな仕事をしたい、休暇を規定どおりに取れる仕事をしたい、老後はどうするか、どこで暮らせるのか。このようなことだと思います。日本社会が機能していた時代には、上記のような問題は、学校や会社を決めることで解決できました。そのため、良い学校や会社に入ることが大事だった。こういう問題を自分一人で解決しなくてはならないために、我々は不安にかられるのではないでしょうか。

「一人でたくさんの問題を解決しなくてはいけない」、「不安になる」、「不安になる自分は大丈夫なのだろうか」、「不安になる自分は情けない、早くこの不安から逃れたい」。このような思考で、不安になることを恐れるのだと思います。そして、自分の選択を信用できなくなったり、現状を否定的に考えるようになってしまう。

今回は、村上龍さんの本をネタにして不安について考察したいと思います。そして「不安になる」という現状は、自分を否定するような悲観的なものではなく、むしろ現状を変えていくきっかけとなるような前向きの状態なのだ、という結論を導きます。

村上龍さんは、皆さんもご存知の通り、芥川賞作家であり、数々のベストセラーを出してきた現代を代表する作家の一人です。村上さんのテーマとして、「共同体と個人の関係」があります。「愛と幻想のファシズム」、「希望の国のエクソダス」、そして「半島を出よ」。これらの作品では、共同体に依存して生きようとする人々と、共同体に敵対して生きる人々が描かれています。

共同体と個人。このテーマは村上さんのエッセイ集「すべての男は消耗品である。」(格好いいタイトルです。)でよく見られます。このエッセイは月刊誌に連載されていたものなので、時事ネタが多く、自然、バブル崩壊後の日本に沿っていろいろと描かれています。その第六集である「蔓延する偽りの希望」(これも凄いクールなタイトルです。)は、1998年10月号から2001年3月に書かれたものを収録してたもので、同書から、20世紀の終わりから21世紀にかけて村上さんが日本をどのように眺めていたかを知ることができます。

この本に、「不安がない人間は危機感を持つことができない。危機感は好奇心と結びついて、ときにその個人にとって重要な行動を起こす原動力になる。」という言葉があります。どういう意味かを考えてみます。

村上さんは、共同体に依存している人は不安を持たないと考えます。なぜならば、依存することにより様々な問題解決を共同体に任せることができるからです。その代わりに、共同体にプライベートをささげないといけない。プライベートを犠牲にすることにより、不安を取り除いてもらうのです。逆に、共同体に依存できない、あるいは敵対している人は不安を感じる。自分を強く主張してプライベートを守ることで、共同体に相手にされず、その結果不安を抱えなくてはいけなくなるわけです。

バブル前、まだ日本社会が巨大な「世間」として存在し、互助制度のような役割が機能していた状況では、この日本システムの一部になれば不安を感じることなく生きていけた。学閥、派閥、出身地区等のグループに入ることで、ステイタスの保障がされていました。この時代、不安を感じる人達は、このグループ社会から逸脱しようとしている「はぐれ者」だった。こういう考えです。

バブルは弾けて、共同体としての日本社会はなくなりつつあります。良い大学を出れば、先輩と同じように有名な企業に大学枠で就職できるわけではなく、会社内で派閥に入れば出世が約束されるわけでもない(課長島耕作の世界ですね)。

しかしながら、バブル前にこのシステムを教授していた人達にはそれが実感できない。従って、こういう人達は「世間」はいまだに存在しているように幻想する。グループ内活動で生きてきた人達は、いまだにそういう活動が会社経営に通じると思っている。バブル後に社会に出た世代は、互助システムが機能していない、すなわち、期待していた日本型システムが消失しているのを実感しています。それで不安に感じる。

こうやって考えると、不安を感じることができる人々は、バブルによって日本社会が大きく変ったことを実感することができる世代と考えられます。すなわち、不安を感じるということは、それだけ社会の変化を敏感に嗅ぎ取っているのではないでしょうか。不安を感じることのない人は、バブル以前の既得権益に守られている人達か、幼少時にインプットされたバブル前日本社会の幻想を信じている人達、ということになります。

すなわち、今の社会で、自分のやりたいことをキチンと考えて人生設計を組むならば、不安を抱くのは当たり前なのです。そして、「不安」を感じられるということは、それだけ先に行動を起こせるということです。今の日本社会でやりたいことをするならば、不安になるのは当然で、その不安な気持ちが駆動力になり先に進むようになる。そこから個人の自由が始まるのではないか。

村上龍さんのエッセイや諸作品から、私はこのように考えました。大傑作「半島を出よ」の最後の1行にこの考えが凝縮されているように思われます。(興味がある人は読んでみてください。この作品はドキリとしたり目頭が熱くなる場面が多いのですが、この長い作品の最後の1行は、全てが凝縮されており、心に突き刺さります。)

現代の日本社会で生きていくには、不安から逃げるために日本社会の代わりとなるような巨大な共同体の一員になるか、不安と共にやりたいことを選ぶか、のいずれしか選択肢はないようです。もっとも、賢い人達は日本社会の残像を利用しつつ自分のやりたいことをしていくのでしょうが。

バブル後の日本社会を乗り切るには、「自分にあうような共同体を見つける」、「不安があっても良しと思えるような時間をすごす」、あるいは、「共同体を利用しつつ、やりたいことだけをする」、のいずれかを選択する必要がある。(3つ目の「共同体を利用しつつやりたいことを」できるような人は、ブログを書いたり読んだりする人々ではなくて、ブログをつくる環境を提供しているような人達でしょう。)

多くの研究者は、「博士を取れば学内社会で生きていけるだろう」と考えて研究者を選んだわけないでしょう、また、「何となく気づたら大学院を出て博士になった」のでもありません、やはり「自分から選んで博士課程進学し研究者になった」のです。共同体にはいるために研究者人生を選んだのはなく、やることが見つからずにぶらぶらした結果博士を取得したわけでもない。我々は、研究をやりたいという目的があって、研究者になることを選んだのです。

大学のサークルの友人が卒業後、研修だボーナスだ昇給だ、という話題で盛り上がっていたときに、我々は夜中の12時に電気泳動をしたりカラム操作をしたりしてきました。彼らがスキー旅行をしてるときには、マウスをさばいたりミニプレップでようやくプラスミドを確認することができて独りで喜んでいたりしてきたのです。それだけ、好きな対象がしっかりあり、そのためには時間を惜しみなく使える。それが我々が選んだ人生です。金や遊びを犠牲にしてでもやりたいと思えることを見つけることができて、それを仕事として選んだ。やりたいことをする、これを人生の最優先課題として考えたのです。

すなわち、知らず知らず(か、考えた結果かは本人次第ですが)のうちに、共同体に参画する方向に背を向けて、不安でもやりたいことを続けられる道を選んできてるのです。「自分で選んだ道を進んできたら不安を感じるようになってしまった。」という我々の状況、これは、日本が迎えつつある新しい社会の中で自分の意思で生きていくことを選んだ結果なのです。

ならば、もう不安を抱くことに憂鬱になるのは辞めて、不安を連れ合いとして好きな研究を続けていくにはどうしたらいいのか、を考えたほうがいいのではないでしょうか。顕微鏡を覗いてるときに、現像液の中でバンドが出現する瞬間に、サバイバルの率を確認するためにマウス室に向かう時に、我々はいつも独りで興奮して充実した時間を過ごしているはずです。そして、そういう時は不安なんか全く感じていない。頭の中には勇ましいテーマ曲が鳴り響いている筈です。こういう時間をもっと増やすためにどうするかを考えましょう。


不安とともに生きていくのはどうしたらよいか、を考えたほうが前向きになれると私は思います。

そこで次回は、「不安」と共に生きていくために何が必要かを考えてみたいと思います。

ポスドクと経済的独立

前回までに以下のことを考えました。まず、バブルにより互助システムとしての日本社会が崩壊してしまった。そのため、この不安定な時代を生き抜くには、頼れるべき新しい共同体を見つけるか、不安を抱えながら独りで自分の方法を模索するか、のいずれかを選択せざるを得なくなってしまった。研究者としてやりたいことを最優先して生きてきた我々は、新たな共同体を見つけるよりも、不安を抱えて生きていく方法を考えたほうが前向きなのではないか。


今回は、橘玲さんの著作「世界にひとつしかない「黄金の人生設計」」(かなりとっつきにくいタイトルですが・・・)(以下、「黄金の人生設計」と略します)をネタにして、考察をすすめていきます。


その前に。互助システムとしての日本社会が崩壊したために、今我々が考えなくてはいけない課題は、「新たな頼れるべき共同体を見つける」、か、「不安と共に生きていくか」、の選択だと上に書きました。では、新たな共同体とはどういうものでしょうか?


もっとも分かりやすい共同体は宗教か政治の団体ではないでしょうか。今後、今の日本社会の混乱が続く限り、宗教団体や政治団体に加入する人は増えるのではないかと思われます。


また、先に紹介した浅羽通明さんは、新しい共同体として、「地元」を考えています。中学つながり、高校つながり、です。例えば、地方都市で暮らしていて、東京に憧れて状況したものの、あまりうまくいかず、地元にもどり、そして地元のよさを認識して、郷土の友人とのつながりを深めて人生を歩んでいく。最近の地方におけるJリーグの盛り上がりや、地元密着型の独立野球リーグの創設からも、地元志向が強くなっているのを見ることができます。浅羽さんは人気ドラマ「木更津キャッツアイ」を用いて、このアイディアを上手に紹介しています。非常に面白い考察ですので、興味のある方は読んでみてください。


話をもどして、今回の考察を始めます。


前回も書きましたが、我々研究者は、好きなことを何よりも優先して、貧乏生活が待っている大学院進学を積極的に選んだわけです。従って、今から共同体探しをするよりかは、不安を抱えながらやりたい研究を続ける方法を考えたほうが、前向きだと思われます。


研究者を続けることで何が不安なのでしょうか?いろいろあると思いますが、「俺みたいなポスドクが、これから先も生活できるかどうかすら分からないではないか。つぶしがきかないし」というのが主だと思います。つまりは、生活を維持できる収入を確保できるか。


もし、親が資産家ならば、何も問題ありません。貧乏ポスドクだろうが、無給研究者だろうが、無給留学だろうが、親に毎月仕送りをしてもらえばすみます。または、宝くじがあたり、3億円の臨時収入があったとか。


などということを考えても意味があまりないので、ポスドクをすることで一般的な生活がおくれるかを「黄金の人生設計」をベースにして考えてみます。


「黄金の人生設計」では、これまでに上げた本と同様に、バブル崩壊で日本システムが消失してしまったことが最初に示されます。


日本システムが存在していれば、日本社会共同体の一部になることで、プライベートはないけれども不安を感じないでいられる生活を送ることができた。会社に就職して一生会社に忠誠をささげれば、60歳の定年までに収入もポストも毎年あがり、充分な退職金を得て、年金暮らしが待っていた。60歳まで勤め上げるのが基本戦略だったわけです。60歳まで真面目に勤め上げるのが美徳とされ、常識と考えられるようになっていた。

「ならば、バブル後の今は、別に定年まで勤める必要はないのじゃないか」、と作者の橘さんは考えます。共同体の幻想が崩壊してるのに、定年まで働くことは美徳でもなんでもない。滅私奉公の意味はもう無い。それよりも、若いときにたくさん働いて資産をつくっておいて、できるだけすぐに退職して、資産運用だけで退職後を生活する。この方が良い人生を遅れるのではないか。60歳じゃなくても、40歳でも、30歳でも、資産さえあれば勤めなんか辞めていいのではないか。なるべく早く会社の世話にならない体制を作るのが、快適な人生を送るために大事なのではないか。

そして橘さんは、このような考え方を「経済的独立」と言う、と続けます。これまでの、「組織に奉公して60歳まで仕事一筋の人生をすごして、それから余生を楽しむ」生き方から、「資産を形成して、なるべくはやく組織の世話にならないようにする。経済的独立を達成する。」生き方へと変えたほうがいいのではないか。

この人の言うように、経済的独立をすることができれば、すなわち、ある年齢までに資産形成できれば、快適な生活がおくれると思います。毎日が日曜日ですから、趣味を堪能することもできますし、人が少ない平日の公園でのんびり過ごすことも、あるいはシーズンオフで格安の海外旅行を楽しむことも可能です。ただ、そんなに上手くいくでしょうか?

本によると、「経済的独立」すなわち、きままに暮らせるほどの資産形成には、「支出」の管理と、「収入」を増やすことが必要です(当たり前ですが)。そして、「支出」の管理のために人生における大きな3つの買い物について考えています。それは、

住居の購入
生命保険の支払い
子供の教育費

です。

まず、住居の購入ですが、「持ち家」と「賃貸」の比較をすることで、「持ち家」の方がお金がかかることを指摘します。お金を貯めることだけを考えれば、「賃貸」の方がよいという結論です。「持ち家」の意味は、ステイタスとか、人生の生きがいとしか考えられない。

次に、生命保険について考察しています。1月に2万円の保険に入ってるとして、40年間支払うと、合計で960万円です。健康で、特に大病しないで、定年したら、1000万円弱、「保険」としてだけで使ったことになります。これを改善できるのではないか。

最後に教育費です。学級崩壊が叫ばれている日本社会で、子供に充分な教育をすることを考えると、中学から私立に行かせる必要がある。中高6年で、私立大学に行かせると、塾代等も込めると、これも1000万円以上になってしまう。

以上を指摘した上で、現実問題として、首都圏で、平均的なサラリーマンが、自宅を購入して子供を育てるのは不可能だと結論します。一般的に考えられている「あこがれ」の暮らしは無理だという結論です。逆に、以上3点をよく考慮して人生設計をするならば、経済的独立の可能性があるのではないか。

例えば、経済的独立を人生の最優先として、生涯独身で過ごすならば、大学卒業後、20年間くらい働けば、ある程度の資産は形成できます。45歳くらいにリタイアし、親と同居し、年金の支払いがはじまる65歳まで、資産運用をしつつ気ままにくらす。

あるいは、子供1人の3人家族で、子供に良い教育を受けさせるために、借家暮らしをし、共稼ぎ、子供の大学進学には育英会や財団の奨学金を申請させて、子供の大学進学とともに、生活パターンをかえ、50歳までには経済的な独立を目指す。

いずれにしても、快適な「経済的独立」を獲得するには、かなりの努力が必要です。経済的独立までが快適ではなさそうです。なにか上手い手はないでしょうか。収入を増やすことができれば簡単なのですが・・・。


残念なことに、本書では、収入の増やし方は書いておりません(確実なお金の増やし方は当然ないですし)。「経済的独立」の概念を紹介し、そのためにきりつめるべき上記3点をあげ、あとは、各自のライフスタイル次第です。という流れです。

ただ、最後に経済的独立を獲得するヒントのようなものが記されています。それは、海外で生活することです。たとえば、コンピュータの仕事でネットがあればどこでも作業ができる。ならば、物価の安い東南アジアでくらして、海外生活を満喫しつつ、お金も貯めることができて、40代には仕事をリタイアすることは可能でしょう。あるいは逆に、50歳までに2000万くらいを貯めて、夫婦で物価の安い国に移る。そこで、60歳までのんびり過ごして、残りは日本で、年金と貯蓄の切り崩しでくらす。

どうやら、日本という枠組みにとらわれなければ、完璧とは言えませんが「経済的独立」を獲得することは可能なようです。


と、ここまで考察して、ようやく本稿のメイン部分になりました。(ここまでどのくらいの方が読んでくれているかは全くわかりませんし、おそらく誰もここまで読んでいないでしょうが、最後まで続けます)。


「共同体に依存しない方法」、しかしながら、「お金による不安も抱かないですむ方法」、である「経済的独立」。日本社会では現実的ではないこの考えは、海外生活をリンクさせて考えることで可能になりそうです。

海外生活を送ることを現実問題として考えると、心配なのは、語学、または、医療問題、でしょう。

語学はどうしても自分でマスターしなければいけません。残念ながら、日本語が通じる国は限られてる。やはり、英語をマスターするのが融通がききそうです。

医療機関はどうでしょうか。日本と同程度の医療機関を期待するならば、候補となる国は限られます。しかも、行った先が日本と同じような物価では仕方がありません。最先端の医療機関があり、しかも、日本よりも物価が安いエリア。あるでしょうか?

アメリカの地方州立大学がある大学街は、これらの条件を全てクリアーします。英語が通じます。大学街なので、留学生や研究者が多く、外国人の比率は高いです。大きな州立大学は医学部を抱えているので、最高の医療サービスを受けることができます。都市部で無い場合、アメリカの住居費は驚くほど安いです。また、アメリカは高校まで義務教育ですので教育費はほとんどかかりませんし、田舎の州立大学は年間60万円程度の授業料です。

たとえば、調べていただければ分かりますが、Ohio州にあるUniversity of Toledoは医学部を抱える州立大学ですが、ここで購入できる一軒家の値段は1000万程度です。調べていませんが、物価も安いはずです。(このあたりの情報はあとでいくつかのサンプル調査をします。)

問題は、こういうエリアに住めるかどうかです。ということで、ようやく今回の結論です。

こういうエリアにすむことが出来る人達は非常に限られています。アメリカの田舎にある大学街にすめる外国人は、学生か研究者だけです。学生は、法律で、週に規定時間内でしか働けないので、自分の貯金を切り崩すか仕送りに頼らざるを得ません(大学院生は給料がでますが)。ということは、経済的独立を考えて、その手段の一環で、こういうエリアに住むことができるのは我々研究者だけです。

立場が不安定なポスドクは、逆に考えると、好きな所に好きな時に好きなだけ住むことができます。博士を獲得し、生活できる必要最低限な英語を獲得し、いよいよ留学する。そして、アメリカの田舎街で、最高の医療機関に守られながら、自分の好きな研究を堪能し、しかもその間、生活費をある程度におさえることで貯蓄をする。この方向性で考えれば、自分のやりたい仕事を快適な生活環境で続けて、しかも、最終的には経済的独立を獲得することは可能ではないでしょうか?

今回のブログは、「ポスドクが普通の生活を送れるか」、という問いかけから始めましたが、よく考えると、なんとなくイメージしていた普通の暮らしは、日本では無理になりつつあるようなことが分かりました。そして、むしろ、ポスドクこそが、その立場とスキルを使用すれば、快適に暮らすことができるかもしれなことが示されつつあります。

しかし、本当に上手くいくのでしょうか?

大体、数千万円もたまるかよ。ポスドクの給料が安いのを知ってるのか?勝手な妄想を言うな。という批判は予想できます。ということで、次回は、セミリタイアの概念を導入しつつ、これらの批判、レビュアーのコメントに応えようと思います。

多分、誰も読んでいないしょうが、期待していてください。ポスドクが快適に研究をして、その後の人生もプライドをもって暮らせる、そういう方法を一生懸命考えております。

ポスドクとセミリタイア

バブル崩壊後の日本社会を俯瞰して、これまでに当たり前と思われていた安定した生活を送ることは、現代では難しいことを確認しました。このような不安定な現代社会で、充実した人生を過ごしていくためには、なんらかの戦略が必要です。ポスドクという立場を利用すれば、自分のやりたい仕事をしながらも、ある程度快適な生活ができるのではないか。「経済的独立」という考えは、快適な研究者生活をするためのキーワードになるのではないか。

経済的独立とは、「人生のなるべく早い段階で、それ以降に必要となる資産をかせいでしまい、仕事を辞めて、組織に頼らずに悠々自適で生活する」という考えです。例えば、1億円ためて、年に5%で運用すれば、税を引かれても400万円弱残ります。年間に300万円で質素に生活することを考えれば、もし1億円あれば、もう働かなくて住む。そういう考えです。

ただ、300万円で生活するには、つつましく生活しなければいけません。また、1億円を貯蓄するのは現実的ではなく、そもそも1億円も貯められる職についていれば仕事を辞める発想にはならないかもしれない。

前回のエントリーでは、「研究者で経済的独立を狙うのは可能なのか?」を考えました。海外生活とリンクさせれば可能ではないか。我々ポスドクは生活が不安定です。それを逆手にとって、学位取得後数年で、アメリカに移ってしまう。行き先は、物価が安く、治安も医療システムも良い、研究の職がある、地方州立大学のある街。

例えば、オハイオ州のトレド。トレド大学には医学部がありますが、ここでは一軒家が1000万円程度で購入できます。また、物価も安い。デトロイト国際空港までは1時間半弱なので、日本との行き来も大変ではない。こういう穴場的な場所で職をみつけることができれば、後は本人の考え方次第で、快適な生活を送れるのでないか?

今回は、「経済的独立」とは少し離れて、ポスドク問題を考える際に私が役に立つと考えているもう一つのアイディア「セミリタイア」について考えます。

セミリタイアという言葉は確か、大橋巨泉さんが最初に使ったのだと思います。「世界まるごとハウマッチ」や「クイズダービー」の大橋巨泉さんです。20歳代の方は覚えてないかも。大橋さんは司会者として売れっ子でした。彼は、50歳で引退して、その後は、特番の司会やゲスト出演という具合に、好きなときにテレビにでる、そういうライフプランをもっていました。つまり、50歳までモーレツに働いて、お金を貯め、それ以降は自分のやりたいことだけを仕事にして生活する。これが彼の言うセミリタイアです。

著作では、1億円をためて、利率の良い海外の銀行に貯金することを勧めていました。そして利子だけで海外で生活する。実際に彼は、カナダとオーストラリア、そして日本を、季節ごとに移動して生活しているそうです。定年まで働かずに、なるべく早くお金をため、また海外の銀行を活用し、物価の安いエリアを拠点にして、日本にこだわらずに生活する。そんな生き方を薦めていました。

大橋さんは超有名人です。1億以上の貯金もあるでしょう。また、セミリタイア後でも、自分のペースで仕事もできるし、現場復帰も難しくないでしょう。我々にとっては、あまり参考になりそうにありません。ただ、ある年齢まで一生懸命働いて、そこから第二の人生を始める。という発想は興味深いと思います。

我々は、バブル前の感覚から、「一度始めた職は定年まで続けるべき」、といった考えにとらわれているのではないでしょうか?自分のライフプランに沿って職を変えてもいいのではないか。仕事が人生の中心ではなく、充実した時間をすごすために仕事がある。人生に沿って、我々をとりまく環境や、我々自身が大きく変るわけですから、携わる仕事も変えていったほうが理にかなっているのではないか。

例えば、研究者になって10年経ち、期待してるようなポジションについていない、このままここで65歳まで過ごすことを考えるとぞっとする。こんな場合は、職を変えた方が新しい展開があるかもしれません。40歳近くになって転職は無理。という反論があると思います。その通りだと思います。しかし、もし、転職の準備を5年くらいかけて行っておけば、可能なのではないでしょうか。

話を分かりやすくするために、ある研究者人生を想定してみます。

29歳で日本の大学院で学位取得。3年間、出身ラボでポスドクをしたけれど、助教になれそうにない、また、教授との関係もうまくない。日本に居ても、楽しく研究生活を送れそうにない。

32歳でアメリカ留学。はじめの契約は2年だったけれどもデータが順調に出て契約更新。さらに同じラボに2年。その間、ビックジャーナルではないが、専門誌にファースト論文2報と共著が3報。

36歳になり、新しい環境に移りたくてジョブハンティングをする。残念ながら、ファカルティには採用されず。シニアーポスドクとして別のラボに移る。そこで、H1ビザに更新して、さらに3年。論文は出たけれど、ビックジャーナルは出ない。

39歳になり、将来のことを考えると不安になり始める。給料はデパートメントから出ているので、当分は在籍し続けることができそう。正直なところ、この後、ステップアップできるかは自信がない。

ただ、7年間アメリカにいるので、また、複数の論文やボスとの共同研究グラントの執筆等で、英語はそこそこできると思う。また、グリーンカードも取れると思えるので、アメリカに永住することも可能。7年の間、海外生活もできたし、研究も思う存分できた。今から振り返ると、結構充実していたと思う。

45歳を研究生活の区切りと設定。それまでにポストを得ることができれば研究を続ける。無理ならば別の職に移る。7年間のアメリカ生活の経験、英語力、研究のスキル、これらを使えば新しい仕事を見つけられるのではないか。帰国するか、アメリカ永住にするか、これから考える。

どうでしょうか?かなり前向きな生き方だと思います。30歳代にアメリカ生活を経験でき、雑用のない環境で、しがらみも少なく、研究に集中できる。これは、とても貴重な時間だと私は思います。学位所得が29歳で、研究引退が45歳。16年間、研究で生活できる。これは、研究を堪能するには充分な期間ではないでしょうか。

また、アメリカで英語の環境で頑張れる精神力と能力があれば、5年の準備期間で新しい技術をマスターするのは充分可能だと思います。そして、45歳から別のことをはじめても、そこから一般的な定年まで20年間もある。人生の新しい章が始まると考えてもおかしくないと思います。

本人の才能と社会的評価が一致しないことは少なくありません。研究の世界でも例外ではなく、良い仕事でもビックジャーナルに載らない場合は多く、良い論文を出していてもポストに就けないこともある。研究に対する情熱だけでは対処できないことはたくさんあります。

また、研究の評価は時代や流行に左右もされます。16年間頑張って、自分では自信のもてる仕事をしてきたにも関わらず、それが社会の評価につながらない。もし、こういうことが現実になったならば、そして、評価されないことを苦しむのであれば、別の道に進むのも人生の選択肢だと思います。

研究が好きで、頑張って学位をとり研究者になった。それを16年続けられた。社会的な評価はあまりなかったけれど、自分としては満足した仕事をしてきた。これで充分ではないでしょうか?

同じ仕事を一生続けることができれば、楽しいかもしれませんが、逆に考えると、他の可能性を試すことができない、ということです。子供の頃に研究者になりたいと思って、努力して夢をかなえた。ならば、次は、大人の自分ができること、やりたいこと、を基準に新しい仕事にトライしてみよう、こういう発想は前向きですし、エキサイティングです。

セミリタイアという考え方をすると、転職することを前向きに考えることができる。そこで、次回は、「経済的独立」と「セミリタイア」を合わせて考えて、より具体的に研究者人生を考察したいと思います。

人生の前半としての研究生活

ポスドク問題に対処するために2つのキーワードを考えてきました。「経済的独立」と「セミリタイア」です。この考えをアメリカ留学とリンクさせれば、楽しい研究者生活ができるのではないか、というのが、本稿のアイディアです。ここまでの考察の過程は過去のエントリーを読んでください。

今回から、「経済的独立」と「セミリタイア」を考慮した研究者人生を具体的に考察していきます。

ところで、研究者というとどのようなイメージでしょうか?我々が、高校生や大学生のとき、「よし、大学院までいって、博士をとり、研究者になるぞー」、と燃えていたとき、どのような研究者像を抱いていたか?毎日オフィスにいて、たまに実験室に来て女の子にちょっかいを出して、データ報告会の時にはピントはずれの発言をする。そんな人ではないでしょう。毎日実験して、英語の文献をたくさん読んで、外国人とディスカッションをバリバリして、学会で発表する。こんな感じではないでしょうか。

多くの場合、ラボを持つ、もしくはそれなりのポジションについて管理する側になると、ベンチワーク、実験をしなくなります。「ああ、事務作業なんかやめて実験したいなぁ」と口にする教授は多いと思います。大体40代を境に実験をしなくなり、グラント書きや授業、委員会や学会の仕事がメインになります。毎日実験してないので、現場の勘が鈍るのも当然ですし、最新の技術の話題にはついていけなくなる。学生やスタッフのプロジェクトを全てはフォローできなくなり、データの的確な判断はできないので、信用できるスタッフの進言に従うことになる。よくあるパターンです。これが、40代後半を過ぎた研究者の一般的な姿ではないでしょうか。

つまり、研究者人生には2つの時期があるわけです。「毎日実験室にいて、自分が出したデータを考えてればいい時期」、と、「毎日オフィスや会議室にいて、部下が出したデータを論文にすることだけを考える時期」。この時期の分かれ目が、40代ではないのか。

日本では、ポスドクと教授の間に、助教、講師、准教授のステップがあるので、これら2つの時期の移行は緩やかに気づかないうちにあります。アメリカでは、ポスドクの次は独立ポジションですので、ポストを得たとたん、グラント書きに集中してベンチワークをしなくなる人は少なくありません。またファカルティとして学内の仕事をしなくてはいけない。こう考えると、研究そのものを楽しめるのは、ポスドクまでと思われます。

私が職探しを始めるとき、今のボスに、「あと1年待ったほうがいいのではないか?自分の経験からアドバイスすると、ポスドクの最後の1年が最も研究について考えた時期だった。ファカルティになってからは、授業のことや、グラントのこと、学生の指導で、自分のデータなんかゆっくりと考えられない。ポスドクの間にどれだけじっくりとデータについて考えるかが、独立した際に大事だと思う。」と言われました。

そういわれてから、周りをよく観察すると、私が所属する学部では、ファカルティの立場でベンチワークをしてる研究者は数人しかいませんでした。しかも、そういう人達は新任の方で、学生やポスドクの数がすくないためにやらざるをえないから、夜遅くまで残って実験をしている。やりたいから、よりも、やらないとデータがでないから、の要素が強い。

もし、教授になるため、すなわち、地位がほしいから研究者になったのならば、以下のストラテジーはあてはまりません。そうではなくて、研究をしたくて博士になったのならば、次に書くような考えはどうでしょうか?

私のアイディア。研究者人生を2つに分けます。45歳までを「ベンチワークができる研究者」、それ以降の定年までの期間は、「管理職の研究者」として生きるか「別の仕事を始める」。45歳でセミリタイアすることを考えておく。

博士になりたくて、大学院に行き貧乏生活を5年以上します。ようやく取れた博士です。その後10年くらい、お金をもらえて研究できる立場をエンジョイしましょう。30代は研究を堪能する。40歳前後で、自分が研究者として管理に回れるかどうか、考えてみる。すなわち才能があるかどうかです。才能がある、いけると思えるならば、次の5年で、管理職につけるように行動する。もし、自分は無理だし、10年で研究を充分楽しんだ、と思えるならば、45からは、別の仕事を始められるように、数年間かけて準備する。

研究職をつづけるにしろ、別の仕事を始めるにしろ、45歳からは、それまでとは違ったスキルが要求されます。すなわち、いずれにしろ、「ベンチワークできる仕事を辞めて別のことをはじめる」わけです。

漠然と研究者を一生つづける、と我々は考えますが、そんなことは現実には無理で、年齢とともに生活環境も変化し必要とされる能力も変る。我々が想像する「研究者」は30代でしかできないことだと思います。

そう割り切って生涯の仕事を2つのフェーズに分けてしまう。前期は「若いときに夢見た仕事」。後期は「前期で培ったスキルをもとにした自分にできる仕事」。こうやって考えると、スッキリしませんか?

以上のように、生涯の仕事を二分割しました。ポスドクは前期でやる仕事です。前期の仕事は、やりたい仕事。そして、前期の残り5年くらいで後期の仕事の準備を始める。ポストにつきたければ、その準備。研究をやめるならば、5年の間に、資格をとるなり、人脈を広げるなり、起業するなり、戦略に基づいた準備をする。ポスドクはそういう期間と考えられます。

次に考えることは、どうやって前期で楽しい研究生活を送るか、そして、どうやって、問題なく後期につなげるか、です。言い換えると、「楽しいポスドク生活とは?」と「後期の仕事を始めるにはどうしたらいいのか?」。

「楽しいポスドク生活」は、私のアイディアでは、アメリカ中西部留学でできると思います。これは次回以降、シュミレーションしてみます。

「後期の仕事」に関しては、個々人が抱えている問題やアドバンテージに左右されると思います。また、「後期の仕事としてラボを構えるにはどうするのか」に関しては、独立された方の経験談が参考になると思います。こちらに関しても、私の考察を以降で述べていきたいと思います。

アメリカ中西部で研究生活を楽しむ

このエントリーでは、研究者生活を充実したものにするために、アメリカ、特に中西部大学街での暮らしを薦めています。

私が良いと思う研究者のライフスタイルは次の通りです。

学位取得後、3年くらいは日本に滞在して、その間に留学費用と、プラス1報くらいの業績を作ってから、中西部州立大学へ留学する。ラボを2,3回変えながらも、アメリカに10年くらい居続けて、アメリカ生活と研究生活をエンジョイしつつ、少しの貯蓄、そして、できる限りの業績を稼ぐ。その後、可能ならば自分のラボを持つ、もしくは、自分の研究に限界を感じるならば、アメリカでの経験、英語力、蓄えた資産、を用いて第二の人生を楽しむ。

ポスドク生活は否定的に考えられがちですが、ポスドクには研究するためにスキルと英語力(もしくは英語を伸ばす素地)があります。また、立場が不安定と言うことは、組織に縛られることもないという意味にもなります。これらを考えると、日本を出て、物価の安い、しかし文化レベルの高いエリアで、研究を楽しんだほうがいいのではないか。私はそう考えます。

これまでに6回にわたって、何故上記のようなプランが良いと思うのか、そして妥当だと思うのかを書いてきました。今回は番外編として、アメリカ中西部大学街について書いてみようと思います。

アメリカには国立大学がなく、公立大学は州立大学です。つまり、各州は、それぞれ、州の税金によって運営される大学を所有しています。

総合の州立大学は、だいたい5校くらい、州内に点在しています。このうち、University of XXXXXの名前がついた大学は研究がメインです。多くの場合、医学部を所有している。そして、予算が多く投下されます。一方、XXXX State Universityの名称の大学は、研究より教育がメインです。大学院よりも学部が重視されているケースが多いです。

各州は、どの大学に優先して予算を投入するかを方針として決めています。研究メインの大学に最も多くの予算が組まれ、2番手、3番手、の教育メインではあるけれど研究機関も充実してる大学に、次に予算が多く組まれる。なので、留学先は、このトップ3の大学にした方がいいと思われます。

どの大学が優先されているかは、各大学のホームページに「我が校は年間XXXXXXドルの予算が州政府より優先的に与えられており・・」みたいな文面が誇らしげに出ています、また、Wikipediaで検索すると、こういう情報を得ることが可能です。

中西部にある、ウィスコンシン大学、アイオワ大学、インディアナ大学、ミシガン大学、ケンタッキー大学、これらの州立大学は、州内の中心校であり、全国的にも名門校として知られています。

各大学が存在する街は、大学キャンパスと街が一体化している場合が多いです。大学の建物や病院や研究機関が街内に点在しています。多くの場合、街の経済は大学に依存しています。

例としてアイオワ大学をWikipediaで調べてみます。

アイオワ大学はアイオワシティーに存在してます。街の人口は67062人。大学には、20907人の学部生、9502人の大学院生、2156人の教員が居ます。これに加えて、大学の事務、食堂、建物のメンテナンス、等の職で雇用されている人々も居ます。つまり、アイオワシティーに住む大部分はアイオワ大学関係者で、残りは、大学関係者が生活するために必要となる店や公立機関の従業員となります。そして、その家族。

自然と、街の中心は大学になります。アイオワ大学は、中西部大学で作られるBIG TENと呼ばれるスポーツ機構の一員です。BIG TENはその試合だけでケーブルテレビのチャンネルがあるくらい、広く人気があります。アメフトやバスケやホッケーの試合は全米にテレビ中継されます。

各大学はこれらのスタジアムを所有しています。従って、大学で試合があるときは町中でチームの応援をし、その様子がテレビで放映されます。このため街には一体感が生まれます。毎年、小さなワールドカップが行われているような感じでしょう。

大学には留学生が多く来ています。特に中国やインドからの留学生が多い。韓国やヨーロッパの国々からもたくさんきています。そのため、各国の食材を扱ったスーパーが存在します。また、各国のレストランも多くあります。日本の食材も手にはいりますし、日本レストランもあります。

田舎街だと保守的なのではないか、という心配もあると思います。各街の人種分布や政治的傾向はネットで簡単に調べれます。ただ、このアイオワ大学の場合、街の半数が大学関係者なので教育水準が高く無意味な差別はないと思われます。また、外国人が多いし、留学生によって街の景気が保たれている側面もあるため、おおむね街の人達は外国人に好意的です。

土地が余っているために、住居費が安く済みます。家賃は、Yahoo.comReal estateのサイトに行けば、簡単に調べられます。ためしに検索すると、80平米くらいの広さで、2部屋、暖炉がついた部屋が700ドルで借りられます。このアパートには共有プールがついています。

大学では、スポーツをすることを奨励してるため、バスケやテニスのコートやジム施設は安価で借りられます。また、土地が余っているためゴルフが安いのは、留学サイトでよく語られている通りです。

以上のように見るだけでも、かなり良い生活ができるのではないかと思います。ポスドクの給料は安いですが、それでもこのような地区では、高いレベルの生活が期待できるのではないでしょうか。

もちろん、ネガティブなこともあると思います。ただ、良いポイントを組み合わせれば、楽しい暮らしが可能なのも事実だと思われます。

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