今日も凹むことがあったのだが、仕事のことは書かないようにしようと決めたので、書かないのである。
昨日、日本では村上春樹新刊が出たのではないか。これは、是非読みたい且つ読まねばならないので早速hontoで注文することになるだろう。
村上さんの小説がなぜ面白いのか分からない、と言う人がたまにいるので、自分なりの村上春樹解説を以下でしてみようと思う。いつものように適当にブログでかくので論旨は辻褄合わないかもしれないけれど。
村上小説のテーマは常に、「私」と「世界」の関わりについてであり、氏の言葉だと「私」と「システム」の関係についてだ。「私」はつまり我々の内世界(心)であり「システム」は外世界つまり目の前にある「現実世界」である。我々は心の赴くままに自由に行きたいけれど、現実世界はそれを許さず、多くの人は妥協したりあきらめたりしたりため息をついたりしながら生きており、あまり幸せではなかったりして、酷い場合には「現実世界」でサバイブする術に困惑する。このような場合、解決方法は2つあり、1つは内世界に閉じこもることすなわち引きこもりであり、もう1つは内世界を忘れて外世界にどっぷりつかるすなわち享楽に溺れることだ。村上さんの作品は、第3の方法、内世界を維持しつつ外世界で幸せに生きていく方法について模索している。「私」と「システム」の適切な距離を決めようとしているのである。
氏がこれまでに出した大長編は、「世界の終わりと」、「ねじまき鳥」、「カフカ」、「1Q84」、そして今回の最新刊、である。私は、これらは連続した小説だと解釈していて、世界観や登場人物の名前はことなるけれど、同じ「私」が少しずつ大人になりその思考が深化する話だと思っている。
「世界の終わり」の主人公は「僕」と「私」そして「影」で、彼らはそれぞれの世界で独りで生きている。この段階では、村上作品の主人公は「私」だけの内世界に閉じこもっており、外には出ようとしていない。が、この小説の最後である出来事があり、彼らは「内世界」に留まりつつ「外世界」に出る方法を模索することを決心するのである。
「ねじまき鳥」の主人公は結婚している。「妻」という存在があり、「妻」を通じて「外世界」と接しているのであり、「妻」の問題を解決しようとすることで「私」と「外世界」の適切な関係について試行錯誤する。物語中、ある事件が起こり、事件解決のためには「暴力」の存在を認めなければいけないと主人公が悟る場面がある。「私」が幸せに生きていくためには「力」が必要であり、暴力的なモノから距離を置いて生きるためには暴力的なモノを手にしなければいけない、という矛盾を認めなければならない、認めることができるくらいに強い自分でなければならない、と気づくのだ。
「カフカ」は少年が主人公であり、親、家族を通じて主人公は外世界を経験していく。そしてこれまで一人称の主人公だったが、ここから3人称になる。つまり、主人公の軸足は内世界の「私」から外世界の「システム」に移ったのだ。「1Q84」では、主人公は宗教と向かい合うことになり、これはまさしく「私」と「システム」の関係そのものである。「私」が「システム」から離れて自由に生きていくためには「システム」に頼らなければいけない、というのが現実であり、ここでも矛盾が出てくる。この矛盾を我々はどう解決していけばよいのか、というのが描かれる。
と、見てみると、村上作品は文学というよりも哲学書の内容に近い。なので、一部の評論家から「彼の小説は文学ではなく、構造しかない」と批判されるのである。小説のスタイルをとっているけれど、「自意識」についてアレヤコレヤと論理的に論じているようなものである、と。私はこの意見に納得するけれど、「だから優れた小説ではない」という結論には賛成しない。
薔薇が目の前にあり、それを盲目の人に伝えようとする。が、この盲目の人が「私は薔薇というものが見えないのですが、それはどういう花ですか?」と聞いてきた時、我々はどう説明するべきか。「薔薇と言うのは赤くて大体10センチ弱の花であり、植物として云々」という情報を述べる方法が1つ。または「薔薇という花は、美しい女性の比喩に使われます。美しいと思い触れると怪我をする。棘があるんです。あるいは情熱を示したいときにも使われますね」というのが別の方法。おそらく、データを延々と述べるよりも、情報量が少なくても「物語」を示したほうがそのニュアンスが伝わるのではないか。つまり、我々が他者に何かを伝えるには「物語」が必要で、優れた物語にはその力があるのである。そして優れた物語を作るのはとても難しい。
村上さんが伝えたいもの、それはもしかしたら論理的に書かれた数行のパラグラフで済むのかもしれない。が、それでは人の心には届かないのではないか。ある程度複雑で且つ重要なことを伝えたいならば、エンターテイメントとして文学として傑作でなければならないのだろう。そして、私は村上さんの作品はそれが成功していると思うのである。
村上作品を読む。ここは分かるよなぁ、と思ったり、ハッとしたりする箇所がある。それと同じくらい、これは何が書かれているか分からないな、という部分もある。何が書かれているか分からないけれど、その描写についてあれこれ考えてそれが自分にどういう意味があるのか考える。その過程において、私は自分や他者や世界のことについて思索していることに気づくのである。
私は、村上小説は村上さんが自らの心に深く潜って色々と考えて考えて考え抜いたことを伝えるための「装置」なのではないかと思っている。大長編は5年おきくらいに発表される。つまり5年間の村上さんの思考の集大成が小説というスタイルで読めるのである。だから私は、あの主人公は今度はどこまで進むのか、と思いながら期待して読むのだ。
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