レビューの作業。
フィギュアレジェンドをとりあえず終わらせて、リファレンスの確認に移る。一応すべてオリジナルペーパーを引用することにしている。パブメドで検索し、そのアブストを読み、すでにパブリッシュされているレビューと比較して、引用が適切かどうか確認していく。で、結果、この分野の歴史を振り返ることになる。
2007年に某有名誌に出た某有名論文、同じ年に同じ内容の論文がほかに4報出ていることに気づく。これらはすべて(我らが)JBCである。つまり、この時に少なくとも5つのグループが同じことを発見して、1つのグループは栄誉を得て、他は後塵を拝した、つまり「やられた」のである。こういう時、我々の業界だと「スクープされた」という表現を使う。私はこれまでにスクープしたこともあるしされたこともあり、10年も研究をしていれば誰でも多かれ少なかれこういう経験はあるだろう。
そして私はスクープしたときは「ざまあみろ、奴らの鼻をあかしてやったぜ!」と思い、されたときは「ふざけんなよ、オレの努力が水の泡だよ」と思った、ということはなく、いずれの場合も「ああ、つまり、オレだけの研究ではなかったのだね、オレがいなくても誰かが見つけることができる類の研究だったわけだ、つまりオレがいなくても成り立つわけね」と哲学的かつネガティブかつ陰気に考えるのである。
私がピート・ストレートの物語を書くのであれば、そのモチベーションは「とりあえずミステリを書いてみたい」であり「この作品で誰かに数日間の娯楽を提供できれば嬉しいな」であり「おまけに金が稼げたら嬉しいぜ」である。別に唯一無二の直木賞狙いの小説を書きたいわけではない。が、例えば、手塚先生がいなければ火の鳥的な漫画は存在せず、永井豪がいなければデビルマン的な漫画は存在せず、村上春樹がいなければノルウェイの森は書かれず、それぞれの作品は完全にオリジナルというわけではなくもちろん先人の遺産の上に成り立っているだろうけれど、それでもやはり唯一無二のモノになっている。
オレはそういう研究をしたいのだ。オートファジーの研究みたいな感じか。おそらく流行りものを追及していても、オリジナリティはでないのだろうな。でも流行りものでなければ予算はつかないし、もちろんポストもとれない。つまり、流行りものでなくても研究が続けられている人はやはり才能がありサイエンスの神様から運を与えれているのであろう。
オレがそうなれるかどうか、だ。
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